交友録
ジャズと私と大原保人
日下圭介(1940~2006) 小説家・推理作家 1997 記
主な作品 「蝶たちは今・・・」昭和50年・江戸川乱歩賞受賞
「木に登る犬」「鶯を呼ぶ少年」57年・推理作家協会短編集受賞
「チャップリンを撃て」「神々の戦場」「竹久夢二殺人事件」
「黒い葬列」「脅迫者たちのサーカス」「海辺の骨」他
目からうろこが、、、いや、耳からうろこが落ちた。大原保人のジャズピアノを初めて
聴いた時だ。驚いた。
私が小学校に入る前の年、日本が太平洋戦争に敗れた。私が育った小さな田舎町にも
進駐軍がジープでやってきた。チューインガムをばらまきながら、彼らが口笛で吹いて
いたのがジャズで、それがわたしたちとジャズの出会いだった。カモン・マイハウス、
ツーヤング、テネシーワルツ・・・。奔流のように流れ込んできたおびただしいハリウッド
映画で見るアメリカは、底抜けに強く明るい。薩摩芋すら満足に口に出来ず、慢性栄養
失調だった私たちにはまばゆいばかりだった。ジャズはまさしくアメリカのテーマミュージック
に映ったものだ。むろん英語の歌詞は片鱗も理解できなかったが、そのうち江利チエミらの
翻訳の歌がラジオから流れ出すと、私たちの愛唱歌になった。
しかしやがてジャズは私から遠ざかった。
ジャズと再会したのは1960年代、大学生の時である。
引き合わせてくれたのは映画だ。「危険な関係」でジャズメッセンジャーズ、「大運河」で
モダンジャズ・カルテット、そして「死刑台のエレベーター」のマイルスデビス。衝撃を受けた。
これがアメリカの音楽だという印象は希薄だった。これらの映画が、いずれもフランス映画
だったかもしれない。それもあろうけれどもアメリカに対する認識が変わり始めていた
こともある。
1960年夏といえば、学生を中心とした大衆運動が炸裂したときだった。いわゆる安保戦争
である。私が所属していた商学部はノンポリというより、真ん中よりやや保守的と学内では
受け止められていた。しかし、連日のように、国会にデモを繰り広げた。
初めての経験だった。アメリカはまばゆい国ではなくなった。
モダンジャズもあの底抜けの明るさは消えていた。マイルスデビスのあの憂いに満ちた
トランペットの響きが衝撃的だったのをはっきり憶えている。
とにかく学生の間にモダンジャズ熱は一気に燃え上った。四畳半一間の下宿に、溢れる
ほどの学生がたむろし、深夜放送のジャズを聴きながら、トリスウヰスキーを酌み交わし、
朝まで、語り明かしたものだった。
新宿の、確か紀伊國屋の裏辺りだったと思うけれど、「木馬」というジャズ喫茶があった。
ライブではなくレコードを聴かせる店で一杯六十円だかのコーヒーで、
何時間も粘ったことも懐かしい思い出だ。
大学を出て、地方周りの新聞記者をしていたころ、青森県の三沢に駐在したことがある。
米軍航空基地の街である。すでにベトナム戦争が勃発していた。F4ファントム戦闘機が
連日飛び立ち、新しくやってきた。酒場で会う米兵たちは、戦争を疎んでいた。エスケープ
したいとはっきり口に出す者もいた。彼らはエラ・フィッツジェラルドやアニタ・オデイの
ボーカルを好んだ。祈りを感じさせるゴスペルソングふうの歌である。
私のモダンジャズに対する思いは、薄れることはあっても切れることなくその後も続いた。
こそこそ買ったレコードが、いつの間にか棚一面を埋めた。聞き返すと、程度の差こそあれ
どれも哀切を感じさせる。ジャズとは憂愁の音楽だと勝手な思いが、私の胸のうちで固定化
していった
それも悪くはない。涙を誘う悲劇も人の心をうつ。
けれどもいつしか私はジャズから離れていた。歳のせいかもしれない。悲痛な局面は、
現実の中でたっぷり味わってしまった。いまは、元気にしてほしい。
そんな時に大原保人と出会った。
驚きました。
こんな明るいジャズがあったのか。耳からうろこが落ちた。
私の心は少年のように高揚した。
大原さん。今後も飛び切り明るい音楽を奏でてください。
人生の折り返し点を過ぎた私の応援歌にさせてください。
1996年 記
「友人は財産」を
実感した大連・旅順ツアー
西澤信善
東亜大学人間科学部特任教授
神戸大学名誉教授
今回の大連・旅順ツアーで大原保人さんのご一行と一緒になった。大原さんの
幼な友達である”良ちゃん”(中山良一さん元NEC幹部)のご紹介である。
私は、初めてジャズピアノを直に聞きそして魅せられた人間だ。
本当に素晴らしいと思った。
それ以降、私は折に触れてジャズピアノを聞くようになった。もともと音楽は
大好きである。たとえば、スタンダードの「黒いオルフェ」や「虹の彼方に」という
名曲がある。それをジャズピアノ風にアレンジするとその素晴らしさが見違える
ようにさらに引き立つのである。
常々思うのである、「芸術家と田舎の人には勝てない」と。
大原さんは、「友人は財産」ということを信条にされている由、言われてみれば
そうかもしれない、実は今回の旅でまさにそのことを実感したのである。
大連の張抗私先生、崔衛華先生、方愛郷先生、譚哠先生、張怡先生
高文文さん、武井さん、いずれも人格、見識申し分なく忘れえぬ人たちである。
前にも言ったと思うが、私はこの人たちと日中友好のためにお付き合い
しているのでない。尊敬すべき、非常にすぐれた人であるからお付き合い
させてもらっているのである。その結果として、日中友好が進めばそれは、
望外の慶びである。
今回、交友の輪は、国内にも広がった。
・・・
大原さんとお会いできたのも今回のツアーの大きな収穫であった。
大阪で演奏される機会があればぜひ駆け付けたい。
今回のツアーで旧知の友人とは友情を深め、また新たに友人ができた。
今回だけでも友人財産は豊中を中心に、大連に、福岡に、千葉に結構あると
確認できた。
金銭財産はさっぱりであるが、友人財産はそこそこ貯まっている。前者は、
物質的生活を豊かにしてくれるが、精神生活を豊かにしてくれる友人財産が
なければ人生は、味気ないものだろう。
この人たちを大事にすれば、いい人生をおくれるものと確信している。
*NPO法人「日本リタイアメント情報センター」会報誌より一
2015年 記
トーキングピアノ
酒井登志生
雑誌編集者及びテレビライターを経て作詞、作曲を手がけ、
「ボンボン小唄」(歌・三島敏夫)「バッキャローソング」
(歌・鈴木ヤスシ)「白い花」「愛の砦」「恋乙女」(歌・村野武憲)
等をコロンビアレコードより発売
エッセイストとして千葉日報文化欄「私の徒然草」
エッセー集「田舎の文化人」「私の徒然草シリーズ」
1988 市原市教育文化功労賞受賞
楽器は、原点として、語らなければいけません。かつて太鼓は「トーキングドラム」
と呼ばれ、笛は「トーキングフルート」と呼ばれ、人間の意思を伝える言葉代わりと
して発達しました。
ピアノは複雑に進化した楽器です。それなら「トーキングピアノ」はいっそう複雑な
音楽で語らなければいけません。
例えばフルートが「雨が降る」と語れば、ピアノは「雨が降ると別れた人を思い出す」
ぐらいまで語らなければいけません。
大原保人さんのピアノにはその語りが存分にあるのです。だから大原さんの演奏を
聴く聴衆はピアノと会話をするように、つい頷いたり、返事をしたりして聞き惚れます。
大原保人さんのピアノには、さらに形容詞さえあって、例えば「枯葉」の演奏では、
舞い落ちる枯葉の色、音、はかなさまで形容されます。
楽器の原点には、トーキングと同時に、性的シンボルの面もあります。ドラムスティック
は、男性を表し、フルートの風穴は女性を象徴し、女体をかたどったコントラバスは、
男性奏者が掻き抱くようにして演奏します。
つまり楽器の演奏は、セクシャルでなければいけません。大原保人さんのピアノには
性感帯があり、聴衆とエクスタシーを共有し、その興奮は聴覚を超え、皮膚感に
高揚します。
大原保人さんのテクニックは、既に定評のあるところですが、そのテクニックには
ファッションがあり、フォーマル、カジュアル、スポーツウエアを演じ分けます。
そして、大原保人さんは大柄な方ではありませんが、演奏中は、
グランドピアノが小さく見えます。
1996年 記
私の徒然草 より
・・・・オリンピック決勝リレーのバトンタッチを思わせ、各パートの音の流れが
スムーズに、感性的に、躍動感にあふれてタッチされていく。
圧巻だった。各プレーヤーが、テクニックのままに自己主張しながらハモっていく
見事な演奏だった。
私がメロディーを拾うようにして聴いていると、それはシャンソンの「枯葉」を
ジャズアレンジしたものだった。鍵盤の一部に成りきって演奏する大原保人さん
の髪に、ちょっと白いものが見えはじめ、千葉県文化功労賞を得たピアニストの
貫禄に思えた。
・・・
2011年 記
届いたメールから(和訳)
人生最良の日でした。すべてに感謝します。目標に向かって一所懸命働いてきて
世界的に有名なピアニストに出会うことができたことは、神に感謝しなければ
なりません。また、来年も、会えますように願っております。我が国と、そして
我々のレストランも、いつでも歓迎いたします。あなたの訪問は、生涯忘れる
ことが出来ません。私共一同から感謝と親愛の情を込めて!
Albelt 2019.7.5
このような小さな町に来てくださったことは、とても光栄なことでした。
コンサートは、とても素晴らしく感動的なものでしたので、当日都合が
つかずに参加できなかった人たちが、新たに次のコンサートの企画を
立ち上げました。再びあなたをお迎えする機会に恵まれますように
願っております。
Lidia 2019.7.2
*2019.6月下旬、クロアチア共和国(人口約440万人、2013EU加盟)
北西部イストリア半島西部に位置するヴィジナダ市(人口約1200人)
で、コンサートを開催
Ms.〇〇〇は、独日協会のメンバーでジャズが大好きな方でした。
大原様のコンサートを楽しんで、三日後にお亡くなりになりました。
御子息様が、お母さんがとても喜んでいて、亡くなる一日前に、
お庭でコーヒーを家族皆で、いただいているときも、コンサートの
話をされていらした、とのことです。
86歳でした。よいコンサートに、あらためて、お礼申し上げます。
2022.7.14
Yasuto Ohara Concert によせて
いソノ てルヲ
ジャズ評論家
動かぬ山に出会いは無いが人と人には出会いがある。1993年と言う
激動の年に出会った数多くの友人の中で、現在一番大切に思って
いる人はピアニストの大原保人君である。
ダイナミックでスイングするピアノ・プレイもさることながら、何とも
魅力のある男で一度会った人なら彼に魅せられない人は居ないだろう。
行動と気配り、誠実な生きざま、今住んでいる地域への愛情、どれを
とっても敬服することばかり。
旧知の某ホテルマンの紹介で企画した会で、音楽という横軸の私達
二人の関係が伸び、彼の所属する社会奉仕団体の周年行事に私が
参加したのが幸運だった。
私は、このサイズのしかもこのタイプの宴の司会は自分でも得意と
している。
要するに私はおめでたい男なのだ。
もう一つ自信があるのは、ラジオのDJで、これは世界レベルだと
思っている。それにひきかえ、文章を書くのはいつまでたっても二流の
域を出ないが、今夜はおめでたいリサイタルなのであえてこの一文を
申した次第である。
1993年 記
竹菅(尺八)とピアノとの出会い
松原利男
日本工芸会常任理事
1993年紫綬褒章受賞
私は無粋者で楽器ひとつ奏でることが出来ないが、音楽を
聴くことは大好きである。そんな私が8年前生まれ育った東京を
はなれて房総半島に住むようになってから同じころに別々の
出会いで大原保人氏とネプチューン氏を知った。
ジョン・海山・ネプチューン氏は日本好きが嵩じて(?)尺八奏者
となり、今や世界的な活動をしておられるのでご存知の方も多い
と思う。特に房総を愛する彼は、土地の竹を使い、自ら作り・・・・
と言っても彼は尺八寸にとらわれず長短自在に竹菅楽器を生み
出し、操り、多彩な音色をうたいあげる。ジョイントするものは多様
フルート・ハープ・和太鼓・ドラム・パーカッション等々実に広く、
その全てをリズミカルな音楽に昇華してしまう。私の住むところ
からさほど遠くない、静かな田園風景に囲まれた、昔、主基斉田
になった程のうまい米の獲れる外房鴨川に居を構えたのは「好き
なサーフィンも出来るから」と言ってのける彼に人間的にも面白味
を感じるのは私だけではないだろう。
年に数回彼の自宅で催されるコンサートに 知人を介して
招かれたのがそもそもの出会いであった。
大原保人氏と知り合うようになったのは、印旛沼での屋形船遊
びの折、酒の席であった。大原氏のピアノは、私が語るまでも
なく、ジャズの本質を偉観なくうたい、身中よりそのリズムに
酔わせる表現をもっている。2年程前彼が私の家に遊びに
寄ってくれた際、私は、彼とネプチューン氏を会わせたいと
考えた。
予想は的中。
二人は意気投合し、さらに一緒に音楽活動もするという。
なんと嬉しいことか!
ピアノと竹菅が融合し、躍動感に満ちた新しい世界を創出
してくれるものと期待している。
1993年 記
出会い
山下敬二郎
歌手
大原保人氏との出逢いは、彼の弟(ベーシスト)が、私の
バンドで、仕事をしていたころ。私のバンドは、いつも
ピックアップメンバーだったので、いつものピアノが、
よその仕事とダブったことから、ベーシストの兄である
(ピアニスト)保人氏が来たことが始まりです。
私の音楽は、ロック・ポップス・カントリー&ウエスタン
たまにポピュラーその他といろいろな歌を歌うので、彼の
腕のふるい所は少ないのですが、とても気に入ったところは、
人間が素晴らしく、いつもステージで微笑みを絶やすこと
なく楽しそうにプレイをしてくれる事。
お客様から見ればバックバンドが明るく見え、私の援護
をしてくれるメンバーの一人です。
これからも、よろしく!
と共に、大原君のエリア、ジャズの世界と、その他の場で
素晴らしい演奏を、音楽を愛する国民に、大いに
披露してください。
1990年 記
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